The 巣 in はてな

2016年にADHD診断の出た主婦のブログの、はてな版です

過去の症状や人生のふり返り

小さい頃から(母)親と仲良くできないのに始まって、様々な点で違和感があったんだけれど、そのどれがどのような要因によって発生しているのかはわからない。例えば、それは私の先天的なADD傾向のせいかもしれないし、あるいはそれを嫌った母の養育態度、家庭教育・学校教育などの後天的な生育環境の影響かもしれない。

もっとも、原因が何であれ苦しむ結果につながっているわけで、一度全部ひっくるめて振り返ってみるのも悪くないかもしれない。ということで、これまでの人生をふり返ってみます。傾向と対策を見つけるための、たたき台となるといいな。

乳児期

1か月分早く産まれた。「未熟児だったのでその間は主に病院の保育器の中で過ごした」と聞いている。母が語っていたところでは「本当によく泣く子で何とか博士の育児書を読んで抱き癖がつかない育児法を試してみたけれど、どうしても泣いた」とのこと。これには父の補足がついて「あんまり泣いてかわいそうだから父ちゃんが抱っこしてやった」とか。母乳はあまり出ず早くから哺乳瓶でミルクを飲んで育った。

2歳くらいの時に母は私の下のきょうだいを流産したらしい。皆多くは、どころか少しも語らないけれど、かなり暗い時期だったんじゃないだろうか。やはり2歳ころに私自身は手術を経験して、どうも激しく泣いたらしい。入院もしたのかな? どちらも私は思い出せないけれど、もしかしたらどこかに記憶は残っているのかな。何となくだけど、幼児期に手術室の無影灯を思い返していたことがあった(とはいえ、テレビドラマとかで見たのかもしれないけれど)。

この頃、どんなことを考えていたのか、まったく思い出せない。一番古い記憶が正しいなら、おもちゃのかかったベビーベッドをだれか(声は女性)が覗いて「あー、うんちしてるー」と言ったのを憶えているような気がするけれど、おもちゃも顔もぼやけている。(まあ、ぼやけているのは視力の低さのせいだとすれば、わりと正しい記憶かもしれない。本当だとすると、本当にごくごく初期のこと。1歳になる前?)

幼児期

人付き合いの苦手な母が公園で頑張ったのか、銀行員の娘と仲良くさせられて幼稚園年中から入園。昭和なのに電動のアイスメーカーを持ってて、その話をすると母はお金持ちだからとか言ってたような気がする。入園少し前から「おねえさんだから、ひとりでねるの」と言って、ふすま一枚隔てて親と離れて寝るようになった。健気な4歳児。

この頃には「先生に怒られたくない」「周りの子を助けたい、守りたい(男児の間でスカートめくりが流行っていたので、と言うと昭和の生まれがバレるな)」といったことからクラスの子から「おかあさん」と慕われてた。

まあ、あれかな、母は100点でないと気が済まないし、100点だとしてもアラさがしするタイプの人なので、もう幼児の心に厳しい超自我ってやつが形成されちゃってたのかもしれない。でも、友達を守ろうとするんだから、母か、母でなくとも父からは大事にされていたのかもしれない。

でも、この父、わりと歪んだ自己愛を持った、けれども自己肯定感の低い人間だった。今もそうかな? 「おかあさん嫌いって言え」ってひそひそと耳打ちされた私が「おかあさんキライ、パパ、すきー」って答える、というのを日常的にやっていたのは、日々行われる父の母に対するマウンティング行為の一つだった。いっそ肉体的にマウンティングしてたほうが健全だったのではないか……?

小学生時代

何度か転校した。母のおかげで「脚が太い」「可愛いかっこうやピンク色を嫌う」陰鬱な子供だった。そのわりに、参観日や成績表の良さは批判どころかひそかに自慢の種にされた。食肉牛のコンテストみたいなもので、無二だから手放したくないわけではなさそうんだけど他者に勝っているということは望ましいとされる。父には常に「負けるな」と言われた。どんなに不当な、不利な状況での出来事についても。相談できる家庭環境ではなかった。

母の手伝いをしようとすると「邪魔だから何もしないで、それより勉強してなさい」と言われていた。でも、いざ家庭科などの話になると「そんなことも知らないの?」となじられた。この言葉は父にも言われてたな、日常的に。子供だから何も知らないし何やっても初めてで下手なのは当たり前なんだけど、「ヘタクソ(笑)」「そんなことも知らないのか?(笑)」と言われていた。

でも、どうしても上手くいかないことがあった。工夫しても。例えば忘れ物。連絡帳に書いて忘れないようにしているはずなのに、見たはずなのに入れるのを忘れる。何度か玄関から出る時、靴を履くために手を放した荷物を忘れてしまった。靴を履いたら背負おうと思ってたランドセルを置いて出ていって、背中の軽さに気づいて慌てて取りに戻ることもあった。あとは、夏休みをメインとする宿題や提出物忘れ、先延ばし。走り回ったりすることはなかったから、やはりADHDよりもADDに近かったんだろう。

学校のテストの成績はむしろ良いほうで、授業中も即座に手を挙げ、回答も間違いなく、将来有望なんじゃないかと話されていた。──私自身は、ぎりぎりの思いでこなしていた。間違えてはいけない。絶対に間違えてはいけない。間違うのは恥ずかしいことだから。知らないと言ってはいけない。知らないのは隠すべきことだから。この延長で、うまくいかないことがあってもだれにも助けを求められなくなってしまった。うつ病の温床。

小学生高学年の頃には、理数系の才能がないから憧れていた宇宙の深淵や神秘を研究する天文学者にはなれない。科学に携われる文系職ならせいぜい心理学者くらいかな、なれるのは、と考えていた。後にこれを昔からの夢のように錯覚するけど、じつは消去法で選んだ選択肢の一つだった。選択している時にはもう忘れてたのが、今となってはすごくイタい。

苦手なことを克服するには失敗し続ける時期が必要だけど、普通のこととはいえ失敗は嫌だし親には失敗をバカにされるしで、勉学とピアノ(という親が金銭的投資の見返りを期待する分野)を除いては失敗しないようにしていた。そのため、走るのも遅い、2重跳びができない、逆上がり、25mクロールができない、ドッヂボールのボールが取れず逃げ回るだけ、という何重苦かわからないしがらみとともに小学生時代を終える。

中学生時代

暗記科目がひたすら苦手。そのはずなのに、英語は早くからIPAの発音記号も含めて単語から教科書まで丸暗記するほどだった。たぶん、興味関心の対象だったから、いくらやっても止まらない感じだったんだろう。

他人との距離感はよくわからなかった。素直に話すことはすでにできなくなっていて、常にそれまで学んだソーシャルスキルのお試しの場としての学校生活のようなことをしていた。何というか、本当の姿が見えてはいけない、スパイのような。でなければ、演技中の女優のような。

一度転校して、転校した当初はクラスメイトに敬語で話しかけるくらいには、子供らしさを失っていた。(これはかなり奇妙だったらしく、掃除中に雑巾を洗っていたら別のクラスの子が物珍しがって話しかけてきた。)(ちょっとアスペルガー傾向もありそうだが、私自身の考えではこれは精神的虐待による発達障害様症状の一つだと思う。他人との距離感を置きたがる。)

できる優等生として私を認めてくれる人は同級生にも教師にもたくさんいた。けれど、じつは臆病で毎日辛くて、”間違っちゃいけない”のにいつもケアレスミスをしては担任に「このケアレスミスさえなければねぇ」、母には「なんでもっと気をつけて真面目にやらないの!」と叱られる、本当の、自分自身にうんざりしていた私に気づいてくれる人は一人としていなかった。

友人に溶け込めない理由は「上手く聴き取れない」せいもあったと自分では思っている。小学生時代から続いていたかもしれないけれど、何人か話していると、遠くに位置している人の声が聴き取りづらい。(成人してからの健康診断でもこのことを話して、聴覚検査もしたのだけれど、異常は見つからなかった。脳の認知機能の問題ではないかと思っている。)話、秘密の共有が大事な子供時代に「え、ごめん、良く聞こえなかった」という、ごく小さな自分のダメな部分をさらけ出すことができなかった……。我ながら酷い状況。

高校生時代

第一志望の高校に入学できなかった。直前勉強で苦手科目は高得点だったのに、得意科目のケアレスミスのせいで合格点に達しなかった。進学した学校も指標にもよるけれど県内上位3位以内には必ず入っていた学校だったから悪くないはずだった。

でも、第一志望に落ちた時に母に無言の否定をされ、さらに通学時間がかかりすぎて睡眠不足を重ねて疲れ切ってしまい、周囲は裕福な同級生たちがお金を使いまくりながら交友したり趣味を愉しんだり早期から予備校に通って飛び抜けて成績が良かったりして、金銭的に余裕のない自分は、親に勝手に寝るシャツにダサいジーパンを買ってこられたりするほど自由を縛られたまま、能力も発揮できず落ち込んでしまった。

落ち込むので済めばよかったけど、人並みにしようと思った恋愛がうまくいかず、相手に心理的に過度に依存してしまってた分、失恋で体調を崩した。希死念慮も深まった。自己効力感がなく、何をしてもダメという不満ばかりが募った。本当はそうでなかったかもしれないけれど……。

大学生以降

以上、淡々と書いてきましたが、もうちょっと冷静ではいられないな。──鬱々としてきたので、ちょっと端折ります。

大学生時代は片道2時間20分かけて通学してたのと、母親の「あんたみたいなのは誰も雇ってくれないわよ」の一言に打ちのめされたまま高額バイトに手を出せず最低賃金の学内バイトのみで、100円のパンと持参した飲み物を昼食として書籍代をひねり出す生活でした。

オシャレもできず。まあ、「やーいブース」と父親にけなされ母親もフォローも化粧の仕方も教えてくれなかったし雑誌を買うお金もなく、当時はネットでもそんな情報は手に入らなかったので、本当にみすぼらしい時代でもありました。それが大学院時代も続いて、社会人になっても私服はそんな感じ。

当時からの彼氏は夫になりましたが、わりと最近までモラハラというか精確にはDVっぽい言動をくり返されて、人生に悲観するどころか生きる気力をなくしていたのに、務める会社の上司はパワハラか労働集約型業務をすべてを犠牲にしてでもやり遂げろというようなタイプの人たちで、うつや適応障害を患ったりもしました。

子供が生まれてから、親も子も「自己肯定感を高めるのが大切」というような本をいくつも読む中、夫もチラ見して自身の父親から虐待されていたことに気づき変わってきて、今はようやく「家庭=ありがとう、ごめんねを自然と口にでき、互いにあたたかく支えあう、ほっとできる場所」という認識が家族で共有されるようになりました。(そう、こういう家庭で暮らしたかったんだよ!

まとめ

恵まれない家庭環境だったので、ADDの症状から二次障害へ突っ走ったまま来ましたが、最近になってようやく自分を「生きていてよい」と認められるようになり、自然に自己を肯定したまま生活している状態が続いている、そんな感じです。

そこへ、さらに知能テストの結果から私の父母の「そんなことも知らないの(か)?」という言葉がおそらくは難癖であったと深く納得できたり、よくある忘れ物や先延ばしなどもADDの症状であるとわかったりして、「私自身の限界でどうしようもなかったのだ」とわかりました。

それとともに、世の中に少なからぬ人数いるADHD/ADDの人たちやグレーゾーンな人たちが、少しずつ自分たちが生きやすくなるような対策を考えて、それをシェアしているということにも気づき、「人生を良くする方法はある」と信じることができるようにもなりました。

この数年はこうした大きな進歩があって、人生に希望を持てています。アラフォーになるまで常に人生を疑って、幸せになれない星の下にあるみたいな苦しさを抱えていて、大変でした。……とはいえ、もし自分から扉を叩いたりしなければ、ネット環境がなく多くの寛大な人たちの公開してる情報にアクセスできなければ、今のような状態には到達できなかったわけで、本当に紙一重の幸運でしかなかった。だから、苦しい状態から抜け出るのが大変な人に簡単に「大丈夫」と声掛けはできないし、したくないです。私は症状や環境がまだマシだっただけかもしれないし。

ただ、私自身の人生は良くならないかもと恐れつつも、良くなってほしいと願う方向に変わってきました。ここに書ききれない、起き上がれないような日々を長く送った辛さなどもありましたけど、長い目で見たら変わってた。そういう場合もあるであろうことを、(もしかするとこれからまた悪くなるかもしれないし、)私はどこか希望として持っておきたいと思いますし、これを読むどなたかにも、希望となってほしいと、切に願います。